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第5話 結婚前夜、父の死が事故ではなかったと知りました

last update publish date: 2026-09-19 11:43:24

第5話 結婚前夜、父の死が事故ではなかったと知りました

『エレナ・ハートへ。あなたの父親は横領犯ではない。だが、事故で死んだわけでもない。』

その一文を、私は何度読み返したのか分からない。

文字そのものは変わらない。それなのに、見直すたびに意味だけが大きくなっていき、十二年間かけて自分の中に積み上げてきたものを内側から崩していく。

父は横領していなかった。

そこまでは、私がずっと信じてきたことだった。

けれど、事故で死んだわけでもない。

その言葉だけは違う。

私は父が無実だった可能性について何百回も考えたし、誰かに罪を着せられたのではないかとも疑ってきた。それでも、死そのものについてまで疑ったことはなかった。

警察の記録では単独事故だった。

夜間の雨。

濡れた路面。

カーブで制御を失った車がガードレールを突き破り、斜面へ転落した。

当時十七歳だった私は、病院の冷たい廊下で母の肩を抱きながらその説明を聞いた。

父は仕事を失い、世間から横領犯と呼ばれ、眠れない日々を過ごしていた。それでも自ら命を絶ったわけではなく、最後まで生きようとしていた。

事故だった。

少なくとも、それだけは不幸な偶然だった。

そう思うことで、私たちはどうにか受け入れてきた。

なのに。

もし、それすら違ったとしたら。

「エレナ?」

同僚の声で我に返った。

私はオフィスの自席に座ったまま、携帯電話を両手で握りしめていた。モニターには午前中から確認していた企業調査案件の表が開かれているが、数字は一つも頭へ入ってこない。

「大丈夫? 顔、真っ白だけど」

「……大丈夫」

反射的に答えてから、それでは何も大丈夫ではないと気づいた。

「ごめんなさい。少し体調が悪くなったみたい。今日はもう上がってもいいか、上司に確認してくる」

「送ろうか?」

「ありがとう。でも一人で帰れるから」

それだけ言うのが精いっぱいだった。

私は仕事用のファイルを閉じ、最低限の引き継ぎだけ済ませた。

外へ出るまで、ダニエルから届いた画像は開かなかった。

見れば、また何かが壊れる気がした。

けれどビルを出て、夕方の風が頬に触れたところで、私はとうとう耐えきれず、近くのベンチへ腰を下ろした。

そして、もう一度画像を開く。

手紙の続きは、最初の一文ほど長くなかった。

『あなたの父親は、金の流れに気づいた。だから消された。あなたが真実を知りたいなら、ヴァレンタイン家を信用してはいけない。ただし、ヴィクター・ヴァレンタインだけを疑えば、必ず間違える。十二年前、あなたの父親を陥れたのは一人ではない。』

そこで文章は終わっている。

差出人の名前はない。

日時もない。

印刷ではなく手書きだったが、父の筆跡ではもちろんない。

「一人ではない……」

思わず声が漏れた。

ヴィクターだけを疑えば間違える。

つまり、ヴィクターは無関係という意味ではない。

むしろ関係しているが、彼だけではないと読める。

では、ほかに誰がいたのか。

当時のヴァレンタイン・グループ経営陣。

監査担当。

送金承認権限を持っていた役員。

外部の会計会社。

取引先。

候補はいくらでもある。

そして、その中にはエイドリアンの祖父も含まれる。

十二年前。

エイドリアン自身はまだ二十二歳ほどだったはずだ。

経営の中心にいたとは考えにくい。

ただし、ヴァレンタイン一族であることに変わりはない。

彼の祖父が何を知っていたか。

彼の叔父ヴィクターが何をしたか。

そして、エイドリアン本人は本当に何も知らないのか。

さっきまで、私は明日彼と結婚するつもりだった。

今もその予定は変えていない。

それでも、手紙を読む前と後では、その結婚の意味が完全に変わってしまった。

私はダニエルへ電話をかけた。

三回目の呼び出しで、彼が出る。

『エレナ』

「その手紙、今あなたが持ってるの?」

『ああ』

「触った?」

『封筒は触った。手袋なんて持ってなかったから。でも中の紙は端だけ持った。指紋が残ってるかもしれないと思って』

少しだけ安心した。

「封筒も紙も、これ以上触らないで。そのまま保管して」

『警察へ持っていくのか?』

「まだ決めてない。でも少なくとも、原本を確認するまでは何もしないで」

『今から持っていく』

「私の家には来ないで」

少し間があった。

『……まだ怒ってるんだな』

「怒ってる。昨日のことも、四万八千ドルのことも。でも今はそれとは別の話をしてる」

『分かってる』

「マーガレットの事務所へ持っていって。私もそこへ行く」

『分かった』

「それと、待ち合わせ場所に監視カメラは?」

『地下駐車場だから、たぶんある。でも管理会社に頼まないと映像は見られないと思う』

「場所を送って。マーガレット経由で正式に保全依頼を出す」

『エレナ』

「何?」

『本当に、これ以上調べるのか?』

その問いに、一瞬だけ言葉が詰まった。

怖くないと言えば嘘になる。

むしろ今までは、父の名誉を回復するための調査だった。

もし父が殺された可能性まで出てくるなら、相手は単に昔の不正会計を隠した人間ではない。

人の命を奪ってまで何かを守ろうとした者がいたことになる。

それでも。

「ここでやめたら、私は一生、自分を許せないと思う」

『……そう言うと思った』

「だからあなたも勝手なことをしないで。もう一人で会いに行かないこと」

『君にそれを言われるとは思わなかった』

「私も一人では動かない。だからあなたも」

ダニエルはしばらく黙ったあと、小さく答えた。

『分かった』

通話を切る。

それから私はマーガレットへ電話を入れた。

事情を話すと、彼女は最初に怒った。

「どうしてダニエルが地下駐車場まで一人で行ってるんですか。さっき私たち、危険な相手かもしれないって話しましたよね?」

「そこは私も今怒ったところです」

「怒る相手が増えすぎです」

「自覚してます」

「とにかく原本はうちで預かります。封筒も紙も別々に保護袋へ入れます。それから駐車場の映像保存を依頼します。施設によっては数日で上書きされるので、今日中に動きます」

仕事の話になると、マーガレットの声は一気に落ち着いた。

それがありがたかった。

「警察には?」

「現時点では手紙だけです。『事故ではない』という内容だけで十二年前の事故をすぐ再捜査してもらえるかは分かりません。ただ、脅迫や接触が今も続いている可能性があるなら話は別です。まず原本と監視映像、それからお父さんの事故記録も取り寄せましょう」

「事故記録は以前取り寄せたものがあります」

「全部?」

「警察の事故報告書と、保険会社の記録の一部だけです」

「では改めて確認しましょう。車両鑑定、現場写真、整備履歴まで残っているかもしれません」

私は頷いた。

十二年前には、そんなところまで考えられなかった。

父が亡くなった直後、家族は横領疑惑への対応だけで精いっぱいだった。

事故の説明を疑う余裕などなかった。

「それとエレナ」

マーガレットの声が変わった。

弁護士ではなく、友人として話すときの声だった。

「今夜、一人でいないほうがいいです」

「大丈夫です」

「その言葉、今日はもう禁止します」

「でも――」

「お父さんが事故死ではなかったかもしれないという手紙が届いて、そのうえ明日、事件に関係しているかもしれない一族の男性と結婚するんですよ。これで『大丈夫』と言う人の自己申告を、私は信用しません」

返す言葉がなかった。

「うちへ来てもいいし、ホテルを取ってもいい。必要なら私が一緒にいます」

「ありがとうございます」

それでも私は少し迷った。

誰かと一緒にいたい気持ちと、一人で考えたい気持ちが両方あった。

そのとき携帯電話に別の着信が入った。

画面にはエイドリアンの名前。

なぜこのタイミングで。

「マーガレット、あとでかけ直します」

「エレナ」

「一人では動きません。約束します」

そこまで言うと、彼女はようやく通話を切った。

私は少し迷ってからエイドリアンの電話に出た。

「もしもし」

『明日の件で変更がある』

相変わらず前置きがない。

「何です?」

『婚姻手続きのあと、一族へ報告することになった』

「聞いてませんけど」

『今決まった』

「誰が決めたんです?」

『叔父だ』

胸が冷たくなる。

「ヴィクターが?」

『ああ。私が明日までに結婚するらしいという話を、どこかから聞いたらしい』

「まだ正式に発表していないのに?」

『だから問題なんだ』

私は黙った。

ヴィクター。

ほんの数時間前、十二年前の送金記録の写真に名前を見た男。

そして今、私たちの結婚を知った。

偶然なのか。

それとも、誰かが情報を流したのか。

「エレナ?」

「聞いてます」

『何かあったか』

「どうして?」

『声が違う』

そこまで分かるほど話した覚えはない。

「まだ知り合って二日ですよ」

『二日あれば、普段より返事が遅い程度は分かる』

余計なところまで見ている。

私は少し迷った。

今朝、父の名前について彼は調べないと約束した。

私が自分から話すまで待つとも言った。

あのとき、ほんの少しだけ信用してもいいのかもしれないと思った。

だが今、手元には「ヴァレンタイン家を信用するな」と書かれた手紙がある。

しかも、その家の人間と私は明日結婚する。

「エイドリアン」

『何だ』

「あなたは、十二年前のヴァレンタイン・グループについて、どのくらい知っていますか?」

電話の向こうが静かになった。

『また十二年前か』

「はい」

『会社にはいた。ただし、今のような立場ではない。大学を出て経営企画部門へ入ったばかりだった』

「財務には?」

『直接は関わっていない』

「ヴィクターは?」

『財務戦略担当の取締役だった』

やはり。

写真に名前があったことと整合する。

「あなたのお祖父さんは?」

『会長兼CEOだ』

私は目を閉じた。

つまり、十二年前の事件当時、ヴァレンタイン家の中心には祖父とヴィクターがいた。

「なぜ聞く」

「……確認したかっただけです」

『それだけではないだろう』

「今は言えません」

『朝の約束を忘れたか』

「忘れてません。何を探しているか分かった時点で話す、でしょう。でもまだ分かっていない」

それは言い逃れでもあり、真実でもあった。

父が殺された可能性がある。

ヴィクター一人を疑えば間違える。

それだけで、何が起きたか分かったとは到底言えない。

エイドリアンはしばらく黙ったあと、意外にも追及しなかった。

『分かった』

「怒らないんですか?」

『怒ってどうする』

「あなたなら、答えろと命令するかと思いました」

『命令して答えるなら、今朝もうしている』

そこには皮肉ではなく、妙な諦めのようなものがあった。

少しだけ申し訳なくなる。

その感情が生まれたこと自体が、今の私には困る。

信用していいか分からない男に、罪悪感を持ちたくなかった。

『それより、今どこにいる』

「会社を出たところです」

『家に帰るのか』

「その予定でした」

『予定でした?』

しまった。

「細かいところを拾わないでください」

『拾いたくなる言い方をするからだ』

私はベンチの背にもたれた。

仕事帰りの人々が目の前を行き交っていく。

誰も、私が明日知らない男と契約結婚することも、父の死が殺人だった可能性を知らされたことも知らない。

それが不思議だった。

世界は何事もなかったように続いている。

『エレナ』

「はい」

『今夜の予定はキャンセルできるか』

「何の予定です?」

『知らない。あるなら、だ』

「それで?」

『八時に家へ来てほしい』

一瞬、言葉の意味を取り違えたかと思った。

「……家?」

『明日から住む家だ。部屋も見ておいたほうがいい』

「ああ、そういう意味ですか」

『ほかに何がある』

「ありませんけど」

自分の返事が少し早かった。

エイドリアンも気づいたらしい。

『何を想像した?』

「何も」

『そうか』

声がほんの少し楽しそうに聞こえた。

腹が立つ。

「明日の朝でいいでしょう」

『本来ならな。ただ、一族への報告が入った。明日は手続きのあとすぐ実家へ行くことになる。荷物を全部運べとは言わないが、生活の説明くらいは今夜済ませたい』

理屈は通っている。

それに、一人で家へ帰るよりはマーガレットも安心するかもしれない。

問題は、手紙を読んだ直後にヴァレンタイン家の人間の家へ行くという状況そのものが、常識的にどうなのかということだった。

「分かりました。八時ですね」

『迎えを出す』

「自分で行けます」

『場所を知らないだろう』

「住所を送ってください」

『警備上、登録されていない車は敷地へ入れない』

「……本当に面倒な家ですね」

『明日からあなたも住む』

「急に現実を突きつけないでください」

今度こそ、エイドリアンが小さく笑った。

電話越しでも分かるくらいだった。

その笑い方が、昨日まで思っていた冷徹なCEOという印象と少し違った。

だから困る。

もっと単純な男でいてくれたほうが、疑うのも利用するのも楽なのに。

『七時半に車を出す』

「分かりました」

『それと』

「まだあるんですか?」

『明日、叔父の前では、あなたが私を嫌っている顔を少し隠せ』

思わず眉をひそめた。

「嫌っている顔なんてしてません」

『している』

「あなたの思い込みです」

『なら鏡を見ろ』

「あなたこそ、人を妻にする前に愛想笑いくらい覚えたらどうです?」

『私は妻が愛想を担当する予定だった』

「契約書にありません」

『追加するか』

「却下です」

「では八時に」

そう言って、私は先に電話を切った。

少しだけ、呼吸が楽になっている自分に気づいた。

それが一番嫌だった。

こんな状況で、エイドリアンとのくだらない言い合いに救われるなんて。

私はすぐにマーガレットへ連絡し、今夜エイドリアンの家へ行くことを伝えた。

当然ながら、最初の返事は長いため息だった。

「手紙を読んだ直後にヴァレンタイン家の人間の家ですか。あなたの人生、昨日から展開が速すぎません?」

「私もそう思います」

「一応言っておきますけど、今夜そこで勢いで婚姻届に署名したりしないでくださいね」

「さすがにしません」

「あなたの場合、『さすがに』も信用できなくなってきました」

「マーガレット」

「冗談です。半分は」

彼女と話し終えたあと、私はダニエルにも連絡を入れた。

手紙はすでにマーガレットの事務所へ届ける途中だという。

「原本はマーガレットに渡して。それから、今日はもう動かないで」

『君は?』

「予定がある」

『ヴァレンタインか?』

そこだけ勘が鋭い。

「私の予定まで報告する義務はないでしょう」

『婚約者だったんだぞ』

「昨日までね」

痛いところを突いた自覚はあった。

電話の向こうで、ダニエルが息を飲む。

少しだけ胸が痛んだ。

でも、それを埋めるために曖昧な優しさを見せれば、かえって彼に期待させる。

「ごめんなさい。でも今は、私たちの関係と父の件を混ぜたくない」

『……分かってる』

「手紙を届けてくれたことはありがとう」

『それだけか』

声に寂しさが混じった。

私は目を閉じた。

三年間。

それは簡単に無かったことにはならない。

楽しかった日もある。

支えてもらったこともある。

今でも彼の声を聞けば、昔の習慣が身体のどこかで反応する。

それでも戻れない。

少なくとも今は。

「今は、それだけ」

ダニエルは何かを言おうとして、やめた。

『……分かった』

通話が切れた。

七時半。

指定された場所へ行くと、昨夜と同じ黒い車が待っていた。

運転手は丁寧にドアを開ける。

私は後部座席へ乗り込み、窓の外を流れていく街を見た。

高層ビルの多い中心部を抜けると、徐々に静かな住宅地へ入っていく。

やがて車は高い塀に囲まれた敷地の前で止まった。

警備員が車を確認し、大きな門が静かに開く。

その先には、家というより小さなホテルと呼んだほうがしっくりくる建物があった。

けれど意外にも派手ではない。

石造りの外壁と大きな窓。

庭には最低限の照明しかなく、噴水も金色の彫像もない。

車を降りると、玄関でマーカスが待っていた。

「お待ちしておりました、ハート様」

「昨夜から何度も会いますね」

「私もそう思っております」

「睡眠は取れてます?」

「少々」

「やっぱり大変ですね」

マーカスがわずかに笑う。

「そのご理解だけで、今日は十分でございます」

中へ入ると、広い玄関ホールがあった。

吹き抜けになっているものの、豪華さを見せつけるというより、静けさが先に立つ。

人の生活臭がほとんどない。

綺麗すぎる。

まるで、誰かが住んでいる家というより、高級家具のショールームだった。

「エイドリアンは?」

「書斎におります。すぐ参りますので、その前にお部屋をご案内いたします」

階段を上がり、長い廊下を進む。

マーカスが一つの扉を開けた。

中には、大きなベッドと窓際のソファ、書き物机、ウォークインクローゼットがある。

色調は明るく、家のほかの部屋より少し柔らかい。

「こちらがハート様のお部屋です」

私は中へ入った。

「エイドリアンの部屋は?」

「廊下の反対側でございます」

思わず扉の外を見た。

「向かい?」

「正確には二部屋分ほど離れております」

「契約書の『寝室は別』って、もっと離れていると思っていました」

背後から声がした。

「逃げる必要でもあるのか?」

振り返ると、エイドリアンが立っていた。

ネクタイを外し、ジャケットも着ていない。

白いシャツの袖を肘まで捲っている。

会社で見る姿より少しだけ若く見えた。

そのことに気づいた自分が嫌になる。

「ありません。ただ、プライバシーの確認です」

「鍵もある」

「あなたの合鍵は?」

「緊急用を管理室が保管している。私は持っていない」

「それなら安心しました」

「そこまで警戒されると傷つくな」

「傷ついている顔には見えませんけど」

「表に出さないだけだ」

「便利ですね、その設定」

マーカスがさりげなく部屋を出ていった。

たぶん、面倒事に巻き込まれないためだ。

賢明だと思う。

エイドリアンは部屋の中へ入らず、扉の外から言った。

「気に入らないところがあれば変えていい。家具も壁の色も自由だ」

「一年しか住まないのに?」

「一年でも三百六十五日ある」

その数字を聞くと、契約の重みが急に現実になる。

「そうですね」

「荷物はいつ運べる?」

「週末までには」

「明日から必要なものだけ持ってくればいい」

「本当に夫婦みたいな会話ですね」

「夫婦になるからな」

平然と言われると、妙に恥ずかしい。

偽物の夫婦。

契約だけの結婚。

分かっているのに、言葉だけは本物と同じだ。

私はごまかすように窓へ近づいた。

庭が見える。

その向こうに街の灯り。

「夕食は?」

「まだです」

「なら食べながら話そう」

一階のダイニングへ案内された。

大きなテーブルがあるのに、用意されている席は二つだけだった。

料理は豪華すぎず、魚と温野菜、スープ、パン。

私は少し意外に思った。

「もっと、キャビアとかフォアグラとか出てくるのかと思っていました」

エイドリアンはナイフを取る手を止めた。

「毎日そんなものを食べていたら早死にする」

「億万長者にも健康診断はあるんですね」

「人間だからな」

「たまに忘れそうになります」

「それはどういう意味だ」

「そのままです」

食事が始まる。

最初は契約の確認だけだった。

明日の朝八時半に弁護士が来る。

九時に最終署名。

その後、婚姻手続き。

十一時にはヴァレンタイン家の本邸へ向かい、ヴィクターを含む一族へ結婚を報告する。

「ずいぶん急ですね」

「祖父の条件が正午だから仕方ない」

「叔父さんは、あなたが誰と結婚するか知っているんですか?」

「名前までは知らないはずだ」

「なら、明日初対面?」

「ああ」

その答えに胸がざわつく。

十二年前の資料に父と並んで名前があった男。

明日、私はその男と家族として顔を合わせる。

「緊張している?」

エイドリアンに言われ、私はフォークを置いた。

「少し」

「珍しいな」

「私を何だと思ってるんです?」

「緊張すると相手の口座履歴を調べ始める人間」

「人聞きが悪いですね」

「昨日の元婚約者への対応を見れば、間違っていない」

ダニエル。

名前を出されただけで、胸の奥が複雑に動いた。

エイドリアンはその変化に気づいたらしい。

「連絡があったのか」

「ありました」

「よりを戻せと言われた?」

「どうしてそこを気にするんです?」

「明日結婚する女の婚約者だった男だ。契約上の問題になり得る」

「恋愛的な興味ではなく?」

「ない」

即答。

少しだけ腹が立った。

理由は自分でも分からない。

「そうですか」

私は水を飲んだ。

そのまま話を終わらせようと思った。

けれど、手紙の一文が頭から離れない。

あなたの父親は事故で死んだわけでもない。

目の前の男は、ヴァレンタイン家の人間だ。

信用するなと書かれていた。

なら、黙っているべきなのかもしれない。

それでも今朝、彼は父の名前を調べないと約束した。

そして実際、今のところ約束を破った様子はない。

私はフォークを置いた。

「エイドリアン」

「何だ」

「もし、あなたの家族が昔、誰かを陥れていたとしたら」

彼の手が止まった。

「突然だな」

「仮定です」

「今日は仮定が多い」

「答えてください」

エイドリアンはナプキンをテーブルへ置いた。

「内容による」

「犯罪なら?」

「証拠があるなら警察へ渡す」

「会社が壊れるとしても?」

「会社は犯罪を隠すために存在していない」

迷いのない答えだった。

あまりにも正しくて、逆に疑いたくなる。

「簡単に言いますね」

「簡単ではない。会社には何万人も社員がいる。家族の犯罪を隠すために、その全員を危険に晒すほうが間違っている」

「もし、お祖父さんだったら?」

一瞬。

ほんの一瞬だけ、エイドリアンの顔から表情が消えた。

「祖父でも同じだ」

「叔父さんでも?」

「同じだ」

「あなた自身なら?」

エイドリアンは私を見た。

逃げずに。

「私なら、あなたが告発すればいい」

心臓が強く鳴った。

「私が?」

「あなたはそういう人間だろう」

「まだ二日しか知りませんよ」

「二日で十分分かることもある」

昨日も似たことを言われた。

私は少し笑いそうになって、できなかった。

「どうしてそんな話を?」

今度は彼から聞かれた。

私は迷った。

全部は話さない。

まだ話せない。

けれど少しだけなら。

「今日、父に関する新しい情報が出ました」

エイドリアンの表情が変わる。

「どんな?」

「父が横領犯ではなかった可能性を示すものです」

これは、今まで信じていたことの延長だ。

「そして?」

「……それ以上は、まだ言えません」

エイドリアンは苛立つかと思った。

けれど彼は追及しなかった。

代わりに言う。

「だから顔色が悪かったのか」

「そこまで?」

「電話でも分かった」

私は思わず苦笑した。

「観察しすぎです」

「明日から夫になる」

「観察と監視を混同しないでくださいね」

「契約書に書いてある」

「そこだけは安心できます」

少し空気が緩んだ。

そのとき、ダイニングの入り口にマーカスが現れた。

いつもの穏やかな顔ではない。

「エイドリアン様」

声だけで、何かあったと分かった。

「どうした」

「本邸から連絡がございました」

「叔父か」

「はい」

エイドリアンの眉がわずかに寄る。

「何だ」

マーカスは一瞬だけ私を見た。

言っていいのか迷っている。

エイドリアンが短く促す。

「ここでいい」

「ヴィクター様が、明日の報告会を待たず、今夜こちらへ伺いたいとのことです」

私の指先から温度が消えた。

「今夜?」

エイドリアンも予想していなかったらしい。

「理由は」

「ご結婚相手に、どうしても先にご挨拶したいと」

私は反射的に携帯電話の入ったバッグへ目を向けた。

そこには、さっきまで何度も見ていた写真が保存されている。

十二年前の送金記録。

父の名前。

そのすぐ近くに書かれていた人物。

ヴィクター・ヴァレンタイン。

エイドリアンが私を見る。

「断れる」

私は一瞬迷った。

怖い。

手紙を読んでまだ数時間しか経っていない。

父を陥れた可能性のある人物が、自分からこの家へ来る。

普通なら会いたくない。

けれど同時に、会わなければ分からない。

十二年間、私は紙と数字ばかり追ってきた。

人間そのものを見る機会は一度もなかった。

「いいえ」

私はゆっくりと立ち上がった。

「会います」

エイドリアンが眉を寄せる。

「無理する必要はない」

「してません」

嘘だった。

かなり無理をしている。

それでも逃げたくなかった。

「明日には会うんでしょう。それが数時間早くなるだけです」

エイドリアンは納得していない顔だったが、無理に止めなかった。

マーカスが退出してから十分ほど経ったころ、玄関側から車の到着を知らせる音がした。

私は無意識に背筋を伸ばした。

エイドリアンが隣に立つ。

「緊張しているなら、私が話す」

「大丈夫です」

「その言葉は禁止されているんじゃなかったか」

マーガレットとの会話を聞いたはずもないのに、似たことを言われて驚いた。

「どうして?」

「今日三回目だ。そして全部、実際には大丈夫そうに見えない」

言い返せなかった。

そんな私に、エイドリアンは小さく手を差し出した。

「何です?」

「明日は夫婦になる。叔父は細かいところを見る」

「今から演技しろと?」

「練習だ」

その言い方が気に入らなかった。

けれど、ここで断るのも不自然だ。

私は少し迷ってから、その手を取った。

昨日、会議室で握手したときと同じ温かさだった。

ただ今度は、すぐには離せない。

指先が触れたまま玄関ホールへ向かう。

自分でも分かるほど身体が硬い。

「力を抜け」

「あなたが言うと命令に聞こえます」

「ではお願いする。力を抜いてくれ」

「もっと不自然です」

「注文が多い妻だな」

「まだ妻じゃありません」

そんな言い合いをしているうちに、玄関の扉が開いた。

入ってきたのは、六十代前半ほどの男性だった。

銀色の混じった髪を丁寧に整え、濃いグレーのスーツを着ている。エイドリアンほど鋭い印象はなく、むしろ穏やかな大学教授か医師のように見えた。

写真で見るより柔らかい。

そのことが、逆に怖かった。

男は私たちを見ると微笑んだ。

「エイドリアン。ずいぶん突然の結婚だな。叔父としては、相手の女性に一度くらい挨拶をしておきたくてね」

それから私へ向き直る。

「初めまして。ヴィクター・ヴァレンタインです」

私は差し出された手を見る。

十二年前。

父。

送金記録。

赤い印。

一瞬だけ、そのすべてが頭をよぎった。

それでも私は表情を崩さず、手を差し出した。

「エレナ・ハートです」

ヴィクターの指が私の手を包む。

次の瞬間。

彼の表情が、ほんのわずかに変わった。

「ハート?」

穏やかな声だった。

けれど、確かに何かがあった。

私は見逃さなかった。

ヴィクターは私の顔を改めて見つめた。

そして、笑顔を戻すまでに一秒ほどかかった。

たった一秒。

けれど、不正会計の調査では、数字が一桁ずれるだけで何百万ドルもの意味を持つ。

人間の表情だって、同じだ。

「失礼」

ヴィクターは柔らかく笑った。

「昔、同じ名字の人を知っていたものだから」

隣で、エイドリアンの手がわずかに強く私の指を握った。

ヴィクターはまだ私を見ている。

私は微笑み返した。

「そうなんですか?」

「ああ。もうずいぶん昔の話だ」

「どなたでしょう」

その瞬間、ヴィクターの笑顔がわずかに薄れた。

そして彼は、私が十二年間ずっと聞きたかった名前を、まるで何気ない思い出話のように口にした。

「リチャード・ハートという男だよ。優秀な会計担当者だった」

父の名前だった。

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    第26話 亡き秘書室長が残した一枚の業務メモに、父の名前がありました 証拠は逃げない。 昨日、私はそう自分に言い聞かせて仕事へ戻った。 その判断は正しかったと思う。 ただし、正しい判断をした人間が翌朝六時前に目を覚まし、まだ開示すらされていない一枚の業務メモについて考え続けることまで禁止してくれるわけではなかった。『M.C.緊急権限付与/会長確認待ち/R.H.異議』 マーティン・コール。 会長確認待ち。 リチャード・ハートの異議。 たったそれだけの記述なのに、読み方はいくつもある。 会長の確認を待ってから送金する予定だったのか。 送金そのものは別の人物が口頭で許可し、アレクサンダーの最終確認だけが後に残っていたのか。 父は何に異議を唱えたのか。資金移動そのものか、マーティンへの緊急権限付与か、それとも処理手順か。 一つの短いメモに、都合のいい意味を詰め込むのは簡単だった。 だからこそ、実物を見るまで決めてはいけない。 分かっている。 分かっているのに眠れなかった。「起きていたのか」 朝食の席へ行くと、先にいたエイドリアンが私を見て言った。「普通に起きました」「六時前から部屋の明かりがついていた」 私は椅子を引く手を止めた。「どうして知ってるんです?」「廊下を通った」「何時に?」「六時十分くらい」「その時間に私の部屋の前を?」「書斎へ行く途中だ」「本当に?」「何を疑っている」「監視」「していない」 返事が早い。 私は座りながらコーヒーへ手を伸ばした。「ヘレンさんのメモ、気になってるだけです」「知っている」「まだ中身見てないのに」「昨日から同じ顔をしている」「また顔」

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    第25話 十年ぶりに母が息子の家で朝食を食べました ミランダ・ヴァレンタインが、十年ぶりに息子の家へ来ることになった。 正確には、今の屋敷は十年前と同じ家ではない。 エイドリアンがCEO就任後に使い始めた邸宅で、ミランダ自身が暮らしたこともない。 それでも、彼女が朝食を一緒に食べたいと伝えてきたと聞いた瞬間、私は「家に帰ってくる」という言葉を連想した。 その言葉を口にしなかったのは、たぶん正解だったと思う。「七時半?」 前夜、書斎でマーカスから予定を聞いた私は思わず聞き返した。「はい。ミランダ様からのご希望です」「朝食だけ?」「現時点では」「現時点では、って何です」「話が長くなる可能性もございますので」 私は向かいに座っていたエイドリアンを見る。 彼は無表情だった。 無表情すぎて、逆に分かりやすい。「緊張してます?」「していない」「今の返事、速すぎました」「事実だ」「十年ぶりにお母様が来るのに?」「この前会った」「二人で、外ででしょう」「そうだ」「家に来るのは別じゃないですか」「何が違う」「全部」 私は即答した。「外の面談場所なら帰る時間を決められるし、話が重くなったら終わらせられる。でも家は生活の場所でしょう。朝食を食べるって、かなり私的です」「お前、妙に詳しいな」「一般論です」「経験は?」「家族と朝食くらい食べます」「母と十年ぶりに、という意味だ」「ありません」「なら一般論ではないな」「揚げ足取らないでください」 マーカスが話へ入るべきか迷っている顔をしている。 私は少し姿勢を戻した。「で、私も同席するんですよね」「母がそう言っ

  • 『離婚まで365日、冷徹CEOは私を愛さないはずでした』   第24話 父に三万八千ドルを送った会社は、消えた資金の通り道でした

    第24話 父に三万八千ドルを送った会社は、消えた資金の通り道でした ブライトン・アドバイザリー。 その社名を、私は翌朝から何度も見ていた。 父の共同名義口座へ三万八千ドルを送った会社。 十二年前、父のユーザーIDで承認された四十二万ドルが、ホーソン・ビジネス・ソリューションズを経由して流れ込んだ会社。 そして、その四十二万ドルの取引は、父の支払承認権限が停止された三日後に、父のIDを使って処理されていた。 数字だけ並べれば、父を陥れるために誰かが不正資金の一部を父の口座へ送り込んだようにも見える。 一方で、父が以前からブライトンと関係を持ち、その会社を通して金を受け取っていたようにも見える。 都合のいい解釈なら、いくらでも作れた。 だから私は、どちらも採用しなかった。「また同じページ見てる」 向かいの席からノアが言った。「三回目?」「五回目」「数えてたの?」「午前九時から同じPDF開いたままだから」 私はモニターから顔を上げる。「仕事してください」「してるよ。君の監視も仕事の一部になりつつあるだけ」「誰から依頼されたんですか」「周囲全員?」「最悪」 今日は自分の事務所だった。 昨日の出張から戻ったあと、エイドリアンが何度も「今日は早く帰れ」と言うので、朝から会社へ来た私に対して、ノアまで似たような扱いをしている。 しかも私自身、以前ほど反発しなくなっている。 それが一番悔しい。「ブライトンの法人情報、出ました?」「今まとめてる」 ノアが画面を切り替える。「設立は十五年前。名目上は保険精算、事業継続支援、企業向け事務代行。社員数はピーク時でも二十人前後」「小さい」「その割に、十二年前の入出金だけ妙に大きい」「どのくらい」「今確認できた範囲で、九

  • 『離婚まで365日、冷徹CEOは私を愛さないはずでした』   第23話 父のIDで承認された取引は、父が会社にいない時間に処理されていました

    第23話 父のIDで承認された取引は、父が会社にいない時間に処理されていました 翌朝、目が覚めて最初に考えたのは、父の十九件でもマーティン・コールでもなかった。 隣の寝室にエイドリアンがいる。 その事実だった。 目を開けたまま天井を見つめ、私は自分にがっかりした。 昨夜までは雨音のせいにできた。慣れないホテル、同じスイート、三百六十五日後の離婚という話までしたのだから、多少感傷的になるのも仕方がない。 けれど朝になって最初に確認したいことが「夫がまだ隣にいるか」なのは、少し事情が違う。 私は枕元のスマートフォンを見る。 午前六時十二分。 メッセージは来ていない。「……普通です」 誰に聞かせるでもなく言った。 同じ場所へ出張している人間が、朝も同じ場所にいる。 当たり前だ。 安心する必要はない。 私はベッドを出て、シャワーを浴び、仕事用のブラウスとパンツへ着替えた。 鏡の前で髪を整える頃には、かなりいつもの自分へ戻っていた。 少なくとも見た目は。     ◇ リビングへ出ると、エイドリアンはすでに起きていた。 窓際のテーブルでノートパソコンを開き、コーヒーを飲んでいる。「おはようございます」 彼が顔を上げる。「おはよう」 それだけだった。 それだけなのに、少し安心した。 非常に良くない。「早いですね」「いつもこの時間だ」「昨日遅かったのに?」「六時間は寝た」「短いです」「十分だ」「年を取ってから後悔しますよ」「まだ三十四だ」「もうすぐ三十五でしょう」「結婚期限を思い出させるな」「あ」 そうだった。 この結婚そのものが、三十

  • 『離婚まで365日、冷徹CEOは私を愛さないはずでした』   第22話 一泊だけの出張なのに、夫と同じ部屋しか残っていませんでした

    第22話 一泊だけの出張なのに、夫と同じ部屋しか残っていませんでした 父を横領犯にした十九件を、私はその日のうちに見なかった。 正確には、見せてもらえなかったわけではない。正式な再調査の中で、外部チームが送金元、承認端末、本人認証、取引先との関係を整理したうえで確認することになり、私もそれに従った。 以前の私なら、夜中まで資料室に残る方法を考えたかもしれない。 今は、一度屋敷へ帰って眠った。 翌朝も普通に起きた。 そして午前六時半、私はエイドリアンと一緒に空港へ向かっていた。「どうして、このタイミングで出張なんでしょうね」 車の窓からまだ薄暗い街を眺めながら言うと、隣のエイドリアンはタブレットから目を上げなかった。「三週間前から決まっていた」「その三週間で人生が変わりすぎたんです」「私もだ」「あなたの場合、自分で変えた部分がかなりありますけど」「結婚のことか」「ほかに何があるんです」「会社の内部調査も拡大した」「それは私だけの責任じゃありません」「責めていない」 言いながら、彼はタブレットを閉じた。 今日の出張先は、ヴァレンタイン財団が支援する地方医療施設と、グループが投資している再生エネルギー関連企業だった。 本来ならエイドリアン一人で出席する予定だったが、結婚発表直後という事情から「夫妻での公式訪問」へ変更された。 私にとっては月六回までと定めた共同公務の一回に当たる。「財団施設での挨拶は何分くらい?」「一時間半」「投資先は?」「二時間」「夕方の記者対応」「三十分」「それで終わり?」「ああ」「なら今日中に帰れません?」「最終便に間に合わない」「チャーター機」「使える」「では使いましょう」「使わない」

  • 『離婚まで365日、冷徹CEOは私を愛さないはずでした』   第21話 父を横領犯にした調査報告書に、同じ時刻の矛盾がありました

    第21話 父を横領犯にした調査報告書に、同じ時刻の矛盾がありました 三か月前、ヴィクター・ヴァレンタインは父が残した例外承認書の画像を見ていた。 その事実が分かった朝、私はコーヒーを半分残したまま、ダイニングの時計を見た。「十五分経ちました」 向かいに座るエイドリアンが言う。「まだ電話しないのか」「あなたが三十分は長いと言ったので、十五分にしたんでしょう」「十五分経った」「質問の順番を確認しています」「叔父に聞くだけだ」「あなたに任せると最初の質問が『なぜ黙っていた』になるからです」「問題があるか?」「あります」「なぜ」「怒っている人が最初に『なぜ』と聞くと、大抵その後の答えを聞かなくなるから」 エイドリアンが不満そうに眉を寄せた。「お前は聞くのか」「私は怒りながら聞く訓練を仕事でしています」「自慢になるのか、それは」「職業技能です」 マーカスが少し離れた位置で、何も聞いていない顔をしている。 私は紙へ書いた五つの質問を見直した。 一、三か月前にVeritas Vaultへアクセスした事実を認めるか。 二、なぜアクセスしたか。 三、サミュエルと同時期にアクセスした理由。 四、何を確認したか。 五、なぜ昨夜その事実を話さなかったか。「これで」「ようやくか」「あなたは最初の五分、黙っていてください」「なぜ私が」「約束してください」「嫌だ」「信用点を下げます」「それを交渉材料にするな」「効いてるじゃないですか」 エイドリアンが黙った。 勝ったと思う。 たぶん。     ◇ ヴィクターは電話にすぐ出た。『朝から二人揃ってとは

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